歴史上の人物と洋食器の関係(1) エリザベートとヘレンド

先日、初めて宝塚歌劇の「エリザベート」を鑑賞しにいきました。
宝塚の世界観にすっかりと魅了され、とても有意義な時間を過ごしてきました。
私にとっては、初めての宝塚観劇ということと、そして何より、演目自体が本当に素晴らしいもので、今も感動の余韻が強く残っています。

エリザベートの生きた時代とリンクするヘレンドの歴史

さて、ここからは私の愛する洋食器の話も兼ねながら、文章を書いていこうと思います。

実は?、ハプスブルグ家の皇妃となったエリザベートの生きていた時代背景と、私も大好きな洋食器ブランド「ヘレンド」は、とても深いつながりがあるのです。

ヘレンド愛好家の方にとっては、ヘレンドが「エリザベート・イヤー」と称して、2012年にエリザベート生誕175年を記念した「ウィーンの薔薇」のピンクバージョンを販売したことが記憶に新しいのではないでしょうか?

(余談ですが、ピンクのバラ柄の食器は、ハプスブルク家のみが使うことを許されていた王家のテーブルウエアで、一般に市販されるようになったのは、ハプスブルク家が王位を去った第一次世界大戦後。比較的最近まで、「ピンクの薔薇柄」を一般市民が手に入れることはできなかったのです。)

エリザベートの舞台を鑑賞し終わったあと、その世界観の余韻に浸るのと同時に、フランツ皇帝やエリザベートの生きた時代背景、そしてヘレンドとの関係を改めてまとめておきたくなり、自分自身の備忘録もかねて、ブログに残しておくことにしました。

結構マニアック?な内容になりますが、洋食器好きな方や、エリザベートがお好きな方の参考になれば幸いです*

(ヘレンドの「ゲデレ」シリーズ。
フランツ皇帝が皇后エリザベートに贈ったというエピソードをもつシリーズです。
初めは「西安の赤」という名前だったこのシリーズは、エリザベートが大好きだったハンガリーの別荘「ゲデレ城」で使われていたことから、この名がつきました。
ヘレンドは、現在までに、たくさんのシノワズリ(東洋趣味)シリーズを展開していますが、この「ゲデレ」がヘレンド最初のシノワズリでした。

美しく深い赤色の中に松竹梅がデザインされた、縁起の良い文様が印象的。
ヨーロッパの歴史ある洋食器ブランドの多くは、日本の有田焼の流れをくむ傾向がある中で、ヘレンドは中国の影響を色濃く残しているのが特徴です。)

経営破たんを経験した、苦労ブランド「ヘレンド」

まずはヘレンドに関する略歴からご紹介します。
ヘレンドは、1826年、ナポレオン戦争が終わって、ヨーロッパ大陸にようやく平和が戻ってきたころに、ハンガリーの首都ブタペストから南西へ110kmほどに位置する「ヘレンド村」に工房が設立されました。ヨーロッパの窯は1700年代に創業したところが多いので、ヘレンドは比較的後発の窯でした。

今でこそ、百貨店などで「高級洋食器」の位置づけとして売られている麗しいヘレンドの食器ですが、じつは設立当初は安い陶器を中心に販売していたり、磁器開発に資産を投じすぎてローン返済ができなくなったりで、設立後わずか約10年後の1839年に破産、その後、ヘレンドにお金を貸していたモーリッツ・フィッシャーという人物に引き継がれました。
彼はのちに、ハンガリー産業への貢献を認められ、エリザベートの夫でもあるフランツ皇帝から、貴族の称号を与えられるほどの人物になります。(…ということを書いていますが、実際のところ、モーリッツ・フィッシャーは”良くも悪くも”色々なストーリーを持っている人物です。長くなるのでここでは割愛しますが…^^;)

エリザベートの生い立ちとは?

さて、ここでエリザベートの人生も絡ませていきます。
ヘレンドが売却された1839年とほぼ同時期の、1837年12月24日にエリザベートは産声をあげました。
1853年8月、15歳になったエリザベートは、姉のヘレナとオーストリア帝国の若き皇帝フランツ・ヨーゼフとのお見合いに同行することになりますが、フランツ皇帝は、姉ではなく妹のエリザベートに求婚し、翌年の1854年4月、当時16歳だったエリザベートはフランツ皇帝と結婚し、オーストリア皇后となりました。

しかしエリザベートは、古い仕来たりを重んじる姑の皇太后ゾフィーとの確執や、時代に逆行した古い考えを持つハプスブルク家での生活、何より、名門貴族ながらも自由な気質を持っていたために、結婚生活に窮屈を感じ、次第に精神的に追い詰められていきます。
(このあたりは、舞台「エリザベート」をご覧になっている方にとっては、なじみ深いシーンではないでしょうか。)

そんなエリザベートですが、結婚4年後の1857年に、初めてハンガリー領を訪れて以来、「大のハンガリーびいき」となりました。もともとはハンガリーとは何の縁もゆかりもないにも関わらず、エリーザベートは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けました。(その熱意は、勉強嫌いの彼女が、短期間でハンガリー語を身につけ、フランツ皇帝とハンガリー貴族の間に入り、通訳が出来るほどのものだったそうです。)

フランツ皇帝の庇護を受けるヘレンド

ここで、再び歴史をヘレンドに戻していきます。
当時ハンガリーはオーストリアのハプスブルグ家の統治下にありました。
エリザベートがハンガリーを初訪問した5年後の1862年、ハプスブルク家御用達だった王立ウィーン窯(現在のアウガルテン)が業績不振で閉鎖(休窯)することになり、工場から首都ウィーンまではさほど遠くないことから、ウィーン窯で扱っていたデザインを、ヘレンドが継承することになりました。
それ以来、フランツ皇帝の庇護を受けて、どんどんと発展していきます。

現在もヘレンドの代表作のひとつとなっている「ウィーンの薔薇」も、もとはウィーン窯のデザイン(オールド・ウィンナー・ローズ)でした。ウィーン窯を引き継ぐ形でヘレンドにオーダーされる事となったのです。
アウガルテンの「オールド・ウィンナー・ローズ」と、ヘレンドの「ウィーンの薔薇」。バラの柄を見ると、ほとんど一緒ですよね。

(ちなみにウィーン窯(アウガルテン)は、1718年に開かれた工房で、マイセン磁器工房に次ぐ、欧州二番目に作られた磁器工房です。1744年にハプスブルク家の女帝マリア・テレジアによって、皇室直属の磁器窯となります。アウガルテンも素晴らしい歴史をもつ洋食器ブランドですので、また別の時に詳しくご紹介したいです。)

ハンガリーの宮廷内で愛されたヘレンド

そして、1867年。
フランツ皇帝はハンガリーの独立欲求を抑えるために、オーストリア=ハンガリー帝国を誕生させます。
この二重帝国成立に貢献したのが、かねてからハンガリーを愛し、民衆から絶大な人気を誇っていたエリザベートの存在でした。フランツ皇帝とエリザベートは自らがハンガリーの国王と王妃に即位したのです。

このあたりも舞台「エリザベート」の中でも演じられていましたが、とくにハンガリーの強い支持を得ていたのは、君主フランツではなくエリザベートだったと言われているようです。(ちなみに、前述のヘレンドの経営を担ったモーリッツ・フィッシャーが、フランツ皇帝から貴族の称号を受けたのもこの時期です)

オーストリア皇帝だったフランツ皇帝が、ハンガリーの皇帝も兼ねるようになると、宮廷での宴では、ヘレンドのテーブルウェアが彩ることになりました。(もちろん、使われていたのはヘレンドだけではなく、アウガルテンやロブマイヤー、意外なところではイギリスのミントンなども宮廷内では使われていたようです。)

エリザベートは次第に、愛されながらもすれ違う夫フランツ皇帝との仲や、愛する息子ルドルフの非業の死、そしてウィーンの宮廷での生活に背を向けていき、どんどんと自らの美しさへの執着を強め、そして、孤独な放浪の旅に身を委ねていきます。
最後には、ルキーニにより暗殺されてしまうエリザベートは、死を迎えることで、ようやく自由になるのです。

エリザベートとヘレンドの関係(まとめ)

最後にご紹介するヘレンドのシリーズは、日本では入手困難な「エリザベートの薔薇」。
エリザベート没後100年を記念して、作られたシリーズです。

(日本ではほとんど出回っていないので、シューズの画像。。。)

生涯を通じて束縛を嫌い、自由を求めたエリザベート。可憐な小花のデザインは、まさにその波乱に満ちた人生をあらわしているかのようです。

本当はまだまだ書き綴っていきたいのですが、長くなってきたので、今回はここまでで。。。
「歴史上の人物と洋食器の関係」、文章にするのがとても楽しかったので、シリーズ化していこうと思います。
(需要があるかは謎なので、完全に自己満足ですが!笑)

エリザベートのことを知っている方も知らない方にも、ぜひ一度はご覧いただきたい舞台でした。
私自身、この舞台を通して、改めて彼女や夫フランツ皇帝とつながりのあるヘレンドに対して愛着がわくよい機会になりました*

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