ひとりの薬剤師が、西洋磁器を生み出した!?【西洋磁器誕生秘話(1)】

主人が薬局を経営していたり、そもそも?私自身も、薬剤師の身内が多い環境で育ちましたが、洋食器が誕生したきっかけにも、ひとりの薬剤師が関わっていました。

その薬剤師がいなければ、いま私たちの手元にある西洋磁器は存在していなかったのかもしれない。そういっても過言ではない”超”重要人物です。

彼の名は、ヨハン・フリードリッヒ・ベットガー。
洋食器愛好家の方々にとっては、「磁器の発明者」としてあまりに有名な人物です。(上の画像中央の胸元がひらけた男性)
彼は錬金術師として知られているのですが、実は?薬剤師でもあったのです。

錬金術は、現在では一種の”マネーゲーム”的要素を表現するときに用いられる言葉になってしまいましたが、「黄金が合成によってできる」と信じられていた昔は、れっきとした学問のひとつでした。錬金術師はさまざまな鉱物や薬物の知識を持ち、変成実験の経験も豊富な特殊技能者としてみなされていたのです。

時は今から400年ほど前の、17世紀の話。
東インド会社を経由して輸入された東洋の磁器は、大変貴重で高価なものとして扱われていました。当時のヨーロッパでは、まだ磁器の作り方が解明されていなかったため、輸入品に頼らざるを得ず、数に限りがあったのです。そのため「白い黄金」とも呼ばれるほどに高価な金額で扱われていました。

そんな磁器を集めることは、ヨーロッパの王侯貴族にとって豊かな財力と、その財力を思いのままにできる権力、そして洗練された趣味の良さを意味するものでした。彼らは集めた磁器を「磁器の間」とよばれる部屋に飾り、自分たちの富と権力を示すシンボルとしました。


(ベルリンにあるシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」)

そんな中、異常なまでに東洋磁器を収集することに熱意を燃やした王様がいます。
それが、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世。通称「アウグスト強王」と呼ばれる、ザクセンの名物的王様。彼の名も、ベッドガー同様に洋食器愛好家にとっては知らぬ人はいないほど、あまりに有名な人物です。


(ちなみに、彼が「強王」と呼ばれるには理由が2つあります。一つは、この肖像画を見てもわかるように、体格もしっかりとしていて腕力が強かったということ。そして、もうひとつ。それは彼が美人に目がなかったこと。笑

上は貴婦人から下は奴隷の娘まで、星の数ほどの愛人がいて、しかも彼女たちとの間に360人もの子どもがいたそうです(この数字に関しては諸説あります)。こういうネタは、各地の宮廷で格好の話題となり、彼の漁色ぶりは『ザクセン風流伝』という本でも大いに暴露されています。笑)

人一倍負けず嫌いで、野心と快楽への欲求が強かったアウグスト強王が、美人以上に夢中になったもの、それが磁器でした。
強王は、自身が即位した1694年に、早速10万ターレル(日本円にして約10億円との試算が!)という巨額費用を磁器収集に費やしました。
1717年には、当時戦争をしていたプロイセン王が所有する中国磁器がどうしても欲しいあまりに、自国の竜騎兵600人を差し出すかわりに、染付の大壺18個と中国磁器の合計127点を譲ってくれと提案し、それに成功します。

この大壺は今もドレスデンのツヴィンガー宮殿に残っていて「竜騎兵の壺」と呼ばれています(上記写真)。(そしてその結果?、ザクセンはプロイセンに戦争で敗れてしまいます…。磁器がもたらした悲劇。。。)
アウグスト強王が1733年に没したときには、およそ25,000点の東洋磁器とマイセン磁器35,798点、北ヨーロッパで最大の磁器コレクションを所有していました。


(地名がたくさん出てきたので、参考までに地図を添付。※引用元はこちら)

さて、話を冒頭に登場したベッドガーに戻します。
ベッドガーは、アウグスト強王がザクセン選帝侯位を継承する12年前の1682年2月4日に、ドイツ南方のチューリンゲン地方の都市シュライツで生まれました。両親ともに何かしら「金」とかかわりのある仕事をしている家系で、父親は貨幣鋳造所の職員、母は貨幣鋳造所の所長の娘でした。(そんな家系で育ったベッドガーが、のちに錬金術に手を染めていくのは、なんとも皮肉なことで…。)

ベッドガーの父親は、彼が幼い時に急死し、母親は故郷のプロイセン領内マグデブルクに引っ越し、そこで再婚をします。
ベッドガーの新しい父親は、ベッドガーを含む4人の子供たちの教育に積極的な役割を果たし、幼いころから利発で、学問ののみこみが早かったベッドガーは、ラテン語、幾何学、数学などをたやすく習得していきました。

そんな彼が何よりも好んで勉強していたのが、化学でした。
ベッドガーの幼少期の親友の一人、ヨハン・クリストフ・シュレーダーは、近所の薬局の息子で、この友達を通して化学の知識を得るにつれて、ベッドガーの興味と技量はますます化学に向いていきました。
その様子をみた義父は、ベッドガーの才能を伸ばすために、1696年14歳になった息子を、ベルリンでも屈指の大薬局の薬剤師・フリードリヒ・ツォルンのもとへ徒弟にだすのです。

当時の薬剤師は、外科医もかねた専門職でした。勤勉で勘の良いベッドガーはツォルンから学べるものをすべて吸収しようと、昼は薬局で熱心に働き、夜は遅くまで読書に励み、化学への情熱を燃やし続けていました。

そんな中でベッドガーは、薬局の豊富な蔵書から錬金術関連の本に出会います。それ以来、彼は錬金術に魅了されていくのです(このあたりの流れは諸説あります)。

ベッドガーの錬金術への探求は尽きることがなく、ほかの弟子たちが寝たか遊びに行っている夜中に、ツォルンの実験室でこっそりと実験を行っていました。ツォルンがそのことに気づくと、「おまえがしていることは時間の無駄。薬の調合に身を入れたほうが良い。そうすれば将来安定した収入が得られるぞ」と諭されます。

しかし錬金術にすっかり夢中となっていたベッドガーにとっては、薬の調合が錬金術の興奮の代わりになることはなく、何度も脱走しては秘密の場所で実験を繰り返し、そして行方をくらました後は、きまって無一文になり、おなかをすかせて後悔して戻ってきました。そのたびにツォルンにもう一度弟子にしてほしい、二度とやらないと誓うにもかかわらず、また隠れて実験を続けるのでした。

そんな紆余曲折もありながらも、1701年9月。ベッドガーは晴れてツォルンのもとで薬剤師の免許を取得します。その直後にベッドガーは錬金実験をツォルンの前で行いました。といってもこれは、錬金術ではなく手品のようなもので、何かの仕掛けをして黄金を出して見せたインチキだったのです。しかし、この怪しげな実験が思いのほかうまくいき、実験を見ていたツォルンは、自分の弟子が黄金の合成に成功したと信じ込み、深く感銘を受けました。

この錬金術成功の噂は瞬く間に広まり、ベッドガー自身も、自分が黄金を作ることができると吹聴してまわるようになりました。

とどまることを知らない噂は、ツォルンの薬局から通りをほんの数本へだてたところにあるプロイセンの宮廷にも伝わり、プロイセン国王フリードリヒ1世のもとにも届きます。

彼は、アウグスト強王にも劣らぬ貪欲さと野心を持ち、絶え間ない戦争と贅沢な生活の資金を調達するために、黄金がほしくてたまりませんでした。


(フリードリヒ1世)

早速フリードリヒ1世は、ベッドガーの身柄確保に兵を繰り出します。しかし、フリードリヒ1世は逆鱗に触れた者に対して、情け容赦ないことで知られており、いかさまがバレたらすぐに拷問にかけられ、処刑されることは間違いありませんでした。いち早く身の危険を察したベッドガーは、ベルリンを離れ、行方をくらまします。

ベッドガーの向かった先は、ザクセン領内のヴィッテンベルク。しかし、ここにもすぐに追っ手が迫ります。困りはてたベッドガーは、フリードリヒ1世よりは、ザクセン王アウグスト強王の手に落ちたほうが、なんとか命拾いができるのでは、と考え、なんとアウグスト強王に保護依頼の手紙を出します。

「飛んで火にいる夏の虫」とはまさにこのこと。金づくりの成功を真に受けたアウグスト強王は、ベッドガーをドレスデンへ護送させ、実験設備をととのえた「黄金の館」という住居兼仕事場に監禁し、錬金実験を強要しました。

「黄金作りに成功する」ことが釈放の条件となったベッドガー。
彼がその後、どのようにして磁器の研究に着手し、そしてヨーロッパ初の硬質磁器作りに成功するのか。

ベッドガーという薬剤師が、西洋磁器誕生の重要人物だったことを書こうと思っただけなのに、ついつい長くなってしまい、結局、磁器作りにどう関わったかを書くことができませんでした。汗
続きはまた次回?に・・・。

<参考文献>

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